【飾り山笠】 中洲流

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中洲流
 

表標題

奮戦本能寺フンセンホンノウジ

人形師

三宅 隆

内容説明

一五八二年天正十年六月明智光秀が、主君織田信長公を討った事件。当時信長は中国で毛利氏と対戦中の秀吉を救援する為、その先鋒武将に光秀を命じ、自らは 手勢わずかと共に京都に入り、本能寺に宿した。光秀は夜半、配下の大軍を率い、“老の坂”に至り突如采配をふるって中国への道と逆方向の東を指して進撃を 命じた。全軍は暁闇(まだ暗い暁方)の本能寺になだれ込み、信長を自決させた。原因は、光秀が丹波平定の際、信長の違約の為母を殺され、又武功によって授 けられた所領を森蘭丸に譲らせられる等、数々の恥辱を与えられた恨みと天下統一の野望の為と云われる。

 



見送り標題

賤ヶ岳之戦いシズガタケノタタカイ

人形師

中村 信喬

内容説明

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)天正十年六月二日、織田信長が本能寺の変で死した後、羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。六月二十七日 織田氏の後継者を決定する会議が清州城で開かれ(清州会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子である三法師を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。ついに天正十一年(一五八三年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との合戦に及び、織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって天下人の基盤となった。


 

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