【飾り山笠】 番外 櫛田神社

<<飾り山笠紹介
令和二年度の飾り山笠は博多祇園山笠が一年延期になったことで櫛田神社の飾り山のみが7月1日に公開になりました。
櫛田神社
      
                                                                   
表標題

清正公虎退治誉(せいしょうこうとらたいじのほまれ)
                
人形師
中村 信喬

内容説明

加藤清正は豊臣秀吉の股肱の臣として活躍します。本能寺の変(一五八二年)の後、秀吉は、織田信長の後継を争い柴田勝家と賤ヶ岳にて激突します。その戦いに於いて清正は敵将を討ち取り、後に賤ヶ岳七本槍と称される武功を立てます。

その後も清正は、四国征伐、九州征伐などで功を重ね、肥後国(熊本県)北半分の領地を与えられ大名となります。また、その恩賞の際に幼馴染みであり腹心の飯田直景、森本一久、又、家臣の庄林一心の加藤家三傑と号される三名にも秀吉よりそれぞれ長槍が下賜されました。

文禄の役(一五九二年)の朝鮮出兵では、破竹の勢いで進撃し敵方から畏怖されるほどの猛将ぶりを発揮します。その進軍の折、夜な夜な虎が出没し陣中を荒らすという事件が起きました。清正は、山狩りを行い飛び出してきた虎を単騎で仕留めました。仕留めた虎は秀吉に献上され、またその虎の頭蓋骨は現在も残存しています。

武芸だけでなく築城の名手としても名高い清正は江戸城や名古屋城等の多くの名城の普請に関わり、殊に熊本城は難攻不落であり後年の西南戦争でも落城しませんでした。一説では、熊本城の堅固な普請は一旦緩急在れば豊臣秀頼を熊本に迎え守り抜く為だったとも言われています。

秀吉の没後、徳川家康が台頭し豊臣家は存続の危機に瀕しますが、清正の存命中は身を挺して守り抜きます。

生涯その身を豊臣家に捧げた清正を人々は敬愛を込めて『清正公』と称え現在も尊崇されています。

この飾り山笠は、加藤清正が朝鮮出兵の際、陣中を荒らす虎の退治を成す場面であります。

 
 

       
                                                                    
見送り標題

桃太郎鬼退治誉(ももたろうおにたいじのほまれ)
                 
人形師

中村 弘峰内容説明

昔々、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に出かけました。

ある日、お婆さんが洗濯をしていると、川上より大きな大きな桃が流れてきました。その桃を拾い上げて家に持ち帰り、桃を包丁で切ると、中から男の子が出てきました。

その男の子の名前を『桃から生まれた桃太郎』と名付けました。

やがて大きくなった桃太郎は、育ててくれた恩返しに、人々を困らせる鬼たちを退治に行くことにしました。

桃太郎は、お爺さんお婆さんが作ってくれた黍団子を腰につけ、鬼ヶ島を目指しました。

そこへ犬が現れ、『桃太郎さん、お腰につけた黍団子を一つ下さいな。』と言いました。

桃太郎は、『これから向かう鬼退治について来るなら、あげましょう。』と言い、黍団子を一つあげると、犬がお供になりました。

次に、猿と雉も同じように従えて、桃太郎一行は船で鬼ヶ島へ向かいました。

鬼ヶ島には大きな鉄の門がありました。そこで先ず雉が飛んで行き、内側から鉄の門を開け、桃太郎たちは一斉に攻め込みました。

犬は鬼たちに噛みつき、猿は爪で引っ掻き、雉は嘴でつつきました。鬼たちは悲鳴をあげて、逃げ回りました。

そして桃太郎は、鬼の大将と闘い降参させました。

反省した鬼たちに『もう悪いことは致しません。』と約束をさせ、桃太郎はたくさんの宝物を取り返しました。

この飾り山笠は昔話の桃太郎鬼退治の一場面です。

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