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風雲桶狭間
(フウウンオケハザマ)
置鮎 正弘
風雲桶狭間 尾張の小大名・織田信長が東海の雄・今川義元の大軍を破る大金星をあげ、戦国時代の大きな転機となった、日本の歴史上有名な戦い「桶狭間の戦 い」。永禄3年(1560)5月19日、正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今 川軍の前衛に攻撃を仕掛けました。しかしこれは勇み足となって逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利 にさらに気を良くしました。13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降り、織田軍はこれに乗じて兵を進め、雨が止んだ直後の14時頃、織田軍は義元の本隊に奇 襲をかけました。今川軍の総勢は2万人であったとされますが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同 士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となりました。義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしましたが、度重なる攻撃で 周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれます。今川義元は服部一忠を返り討ちにしましたが、毛利新介によって組み伏せられ、討ち取られました。総 大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の大勝に終わりました。登場人物 今川義元・織田信長・木下藤吉郎・ 服部小兵太・毛利新介
筑紫曙千三百五十年
(ツクシアケボノセンサンビャクゴジュウネン)
小嶋 慎二
筑紫曙千三百五十年 九州北部は外交・防衛上の重要な地域でありました。約1350年前、大和政権によって日本の国が形づくられた頃、朝鮮半島では高句 麗、新羅、百済の三国の争いが繰り広げられていました。百済が唐・新羅の軍に攻められた時、百済と親交があった大和朝廷は大規模な援軍を送り出しますが、 白江村の戦いで敗北し、百済の国は滅亡します。強大な唐・新羅連合軍を目の当たりにした大和朝廷はその襲来恐れ、百済から亡命渡来した人たちの知恵や技術 を得て、長崎県対馬から瀬戸内海を経て奈良にいたる西日本一帯に山城を築きました。そのひとつである大野城は日本最古の山城とされています。(日本書記に も表記あり)大和朝廷は六世紀から九州の政治的、軍事的支配の拠点として、また外交の窓口として「那津官家」という出先機関を置いていたことが日本書紀に 書かれています。「那津官家」の後、九州の役人を治める職名として「筑紫大宰」の名が記録に現れます。筑紫大宰が管理していた組織が後の大宰府政庁に続い ていきます。水城・大野城・基肄城の史跡より、古代国家成立の時点でこの福岡の地において国づくりの巨大プロジェクトが実施され、このプロジェクトが成っ た後、「倭」と呼ばれていた我が国は国号を「日本」と称し、「天皇」の名称も使われるようになりました。登場人物 斉明天皇(女帝)・天智天皇(中大兄皇 子)・憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫 他
総務:原洋
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