【飾り山笠】 櫛田神社

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櫛田神社
 
このお祭りの”舞台“となる櫛田神社の境内に建つ。追い山笠の終了とともに山笠は解くのが決まりであるが、この山笠は例外。祭り期間以外に来た観光客用に 一年を通して公開される。毎日、記念撮影の人々でにぎわう。(博多区上川端町)
 


表標題

博多津再興之礎はかたつさいこうのいしずえ

人形師

中野親一

内容説明

戦国の世、博多の街は度々の戦に見舞われ荒れ果てておりました。天正十五年(1587年)、時の関白豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州征伐を果たし、九州・ 博多にも平安がもたらされたのでした。しかし、前々から博多という地の利便性に注目していた秀吉は、嶋井宗室や神屋宗湛という博多商人等の力を使い町の再 興を行い、朝鮮国や明国出兵への足がかりにしようとしておりました。 そこで秀吉は、九州征伐の折りに参謀であった黒田官兵衛(後の如水)を筆頭に小西行長等九州の大名を奉行として、秀吉の治世に相応しい新しき博多の町を作 るように命じるのです。これが世に言う太閤町割である。 ところで、当時の博多は大陸との貿易などで知識や文化等がどこの地域よりも早く伝わっていたために、生半可な町作りでは博多に住む町人はもとより博多商人 達の得心も得られないであろうと考え、秀吉配下の中でも最も智恵者として知られていた石田三成に町割の法を考えさせるのです。 色々と考えた末、困り果てた石田三成は懇意にしている神屋宗湛に「如何にしたがよいか?」と尋ね、宗湛は妻の兄で景轍玄蘇という僧侶に近代的な街作りに協 力するように依頼しました。 この玄蘇の考えも参考に、十町四方・縦横小路を張り巡らす現代の博多という町の原型ができたのでした。 この飾り山笠は戦火に疲弊した博多の町を豊臣秀吉が博多ゆかりの人々と協力をして復興させていく「太閤町割」の一場面である。
 



見送り標題

大八島国曙おおやしまくにのあけぼの

人形師

中野親一

内容説明

この世がまだ世界としての体を成しえていない遥かなる昔に、初めて天と地が出来上がりました。
それと一緒に我々(日本人)の一番最初の祖先となる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が天の上にある高天原(たかまのはら)にお生まれになりましたが、その時には天も地もしっかりと固まっておらずに、ふわりふわりと浮いているような状態でした。
さらに、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かむむすひのかみ)等の神々が次々とお生まれになる中、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)・伊耶那美神(いざなみのかみ)と仰る男神・女神がお生まれになりました。
そこで、天之御中主神は伊耶那岐・伊耶那美お二方の神に天の沼矛を与えられて「漂へる国を修理め固め成せ。」と命じられました。
伊耶那岐・伊耶那美お二方の神は高天原の天の浮橋に立たれ、沼矛にて潮をかき混ぜられ滴り落ちる潮にて淤能碁呂島を作られました。その地に降りられ、御殿 を建てられ夫婦の契りを交わされますと、淡路や筑紫・津島・隠岐・伊岐・伊予等の国々、最後に大倭豊秋津島をお生みになり大八島国(日本の国)を無事に作 られていきました。
すべての国を生み終えた後、更に大事忍男神(おおことおしをのかみ)や石土毘古神(いはつちびこのかみ)等の自然や生産を司る、後の世の人間が生きていく為に必要な神々をお生みになるのです。

この飾り山笠は日本という国の誕生の成り立ち、また我々が生きていく上で信仰すべき尊い神々の生成という日本誕生の一場面である。

 

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