【飾り山笠】十五番山笠 博多リバレイン

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表標題

関ケ原長政武勲之誉(せきがはらながまさぶくんのほまれ)

人形師

生野 四郎  

内容説明

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国(岐阜県)不破郡関ヶ原を主戦場として行われた合戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる。

豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ケ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。

この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった。

 

                                                                                       
見送り標題

決闘巌流島(けっとうがんりゅうじま)
人形師

生野 四郎

内容説明

1612(慶長17)年4月13日に、長門の国「船島」(現在の巌流島)で宮本武蔵(当時29歳)と佐々木小次郎が決闘をしました。当時、諸国をまわったのち小倉の細川家に仕え、小倉城下に道場を開いていた佐々木小次郎に、諸国修行中の武芸者宮本武蔵が、細川家の家来であった長岡佐渡を通じて試合を申し込みました。試合場所に指定されたのが、船島(巌流島)でした。

決闘の約束は辰の刻(午前8時)でしたが、武蔵の到着が遅れ島に着いたのは、巳の刻(午前10時)になりました。小次郎は波打ち際で武蔵を迎えました。遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、刃渡り三尺はありそうな刀を抜きました。武蔵の前頭部に振り下ろされましたが、刀は武蔵の鉢巻の結び目を切っただけで、かわりに武蔵は船の櫓ろをけずって作った長い木剣で小次郎の頭を打ち砕き、小次郎はばたりと倒れました。武蔵はとどめを刺すことも忘れ舟へ飛び乗り、下関へと急ぎました。

武蔵はこの後、細川家に仕えて晩年を全うしましたが、敗者を想う地元の人々は敗れた小次郎の流派をとって後に「巌流島」と呼ぶようになりました。

※武蔵と小次郎の決闘については諸説あります。下関市公式観光サイトより

 

  

 

 


 総務:山本 成嗣

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