都を追われた平家は、摂津福原、讃岐屋島、長門彦島と西下してなんとか権勢を保とうとしていました。それに対して源氏の頼朝が派遣した弟の範頼は先回りして九州を抑え、その弟義経は瀬戸内海伝いに西に進軍し、元暦二(1185)年三月二十四日に関門海峡でついに平家軍とぶつかりました。当初、平家方が優位に戦いを進めましたが、潮目が変わり平家方の諸将が打ち取られ、幼い安徳帝も母の平徳子(建礼門院)、その母の時子(二位尼)と三種の神器と伴に入水しました。権勢を誇った平氏政権は終焉し新たな源氏の世となった歴史の転換点の戦いとして知られています。義経の八艘飛びは、『平家物語』から生まれた義経伝説の一つです。平徳子は海中から救い出され、京都で出家して大原の寂光院で一族の菩提を弔いました。
宰府浦ノ城合戦(さいふうらのじょうかっせん)
西山 陽一
時は14世紀の南北朝時代。太宰府には鎌倉時代以来、守護として武藤少弐氏が居を構えて北朝方に付き、南の肥後には南朝の後醍醐天皇の皇子懐良親王を要する菊池氏がおり、北へと勢力を伸ばしていました。九州には九州探題として一色範氏らが入り太宰府は一色氏に占拠されたため、少弐氏は敵対関係にあった菊池氏に助力を頼みます。文和元年/正平7年(1352年)に太宰府の峰の薬師(福岡女子短期大学付近)や浦ノ城直下の竹曲で合戦となり、一色氏は敗走します。これを「宰府合戦」と呼んでいます。菊池武光がこの窮地を救ったことから、少弐頼尚は子々孫々に至るまで菊池氏を攻めないという起請文を菊池氏に渡しました。後にこの起請文が少弐氏の盛衰に大きく関わることになります。
総務:荒牧 正道