トップページ
スケジュール
コースマップ
舁き山笠紹介
飾り山笠紹介
令和二年度 博多祇園山笠
令和三年度 博多祇園山笠
令和五年度 飾り山笠
博多祇園山笠動画
Language
日本語
English
中文(簡体)
中文(繁体字)
한글
広報用写真
広報用動画
商標権・商用利用に関して
令和六年度 博多祇園山笠動画
令和六年度 博多祇園山笠
令和七年度
令和七年 舁き山笠
令和七年度 飾り山笠
【飾り山笠】 七番山笠 中洲流
<<飾り山笠紹介
長政関ヶ原武勲
(ながまさせきがはらのぶくん)
三宅 隆
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、美濃国関ケ原で徳川家康方の東軍と石田光成方の西軍が激突。
世に言う『関ケ原合戦』である。この戦いで東軍に加わった黒田長政は合戦の先陣を務めて大いに武功を表した。戦いは一進一退の攻防を繰り返したが、午後に至り小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、東軍の勝利で幕を閉じた。
この時小早川秀秋に裏切りを勧めたのが黒田長政で、戦いの後徳川家康が長政の手を取り感謝したと言われている。この関ケ原の武勲によって黒田長政は筑前国五十二万石を賜り、同年十二月豊前国中津城より小早川秀秋の居城であった名島城に移った。しかしこの城が五十二万石にはふさわしくなく、翌年から七年をかけて那珂郡警固村の福崎に新しく城を築き、城下町を出身地にちなんで福岡と名付け、ここに黒田藩の基礎が確立された。
壮烈岩屋城之戦
(そうれついわやじょうのたたかい)
溝口 堂央
一五八六年九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、最後の抵抗勢力である大友家の家臣筑前の髙橋紹運のもとに島津忠長伊集院忠棟を大将とする二万の大軍を進軍させた。同年七月岩屋城(現四王寺山)に髙橋紹運は七六三名と籠城、島津軍は再三の降伏勧告をするも落ち目になったとしても主君は裏切れないとし応じず徹底抗戦した為、島津軍は総攻撃に出る壮絶な戦いの後ついに紹運は髙櫓にて割腹して果てた。紹運以下七六三名全員が討死自害して、戦いの幕は降りた。島津勢も死傷者三千名ともいわれ態勢を立て直すのに時間を要し立花宗茂(髙橋紹運の実子)が籠る立花山城への攻撃も鈍り、その間に豊臣勢二十万が九州に上陸し九州制覇という島津の野望は叶わなくなった。
総務:比山 善博
"平成三十年度 博多祇園山笠"の関連記事
<
【飾り山笠】 番外 櫛田神社
メニュー
櫛田神社 第49回式年遷宮
博多祇園山笠振興会
博多祝い唄(祝いめでた)
山笠の歴史
山笠うんちく
広報用素材のお申込み
広報用写真
広報用動画
山笠忌服に関して
集団山見せ台上がり一覧
Q&A
お知らせ
交通規制について
路上禁煙地区について
ドローンについてのお願い
年度別山笠紹介
動画アーカイブ
令和元年度 博多祇園山笠動画
追い山笠馴らし(12日)櫛田入り・全コースタイム(令和六年)
追い山笠(7月15日)櫛田入り・全コースタイム(令和六年)
商標権・商用利用に関して
観光のお問合せ(個人・法人)
お問合せ(法人)
取材等について